特集愛知の底力

2025.10.02

マルホン胡麻油の故郷・愛知は、発酵調味料の宝庫。江戸時代の尾州廻船とともに愛知の底力を追う


愛知の底力

愛知の尾張、三河では、江戸時代には味噌、酢、醤油、みりん、酒といった発酵調味料を造りはじめていました。温暖な気候と豊かな水が生みだしたのは、この地ならではの味わいです。しかも商才に長けた先人たちは、自慢の品々を人口100万人を抱える江戸に船で出荷し、商いでも成功を収めました。マルホン胡麻油の故郷、愛知へ想いを込めて。愛知の発酵調味料が永く愛される底力に触れました。

八丁味噌の香りがこもるカクキューの蔵には、表現できない何かが息づいている。木桶には6tの八丁味噌、上には350個(重さ3t)ほどの石が円錐形に積みあげられ、最小限の水分を全体に行きわたらせる工夫が凝らされている。石積みは10年以上の経験がある熟練の職人しかできない技。

醸す[八丁味噌・白醤油・みりん・酢]

八丁味噌

愛知の発酵文化は木桶の存在も大きい。カクキューは底の直径と高さが180cmもある巨大な木桶で味噌を仕込む。木桶は100年ものもあるほどで、写真は現役引退したものだが、「天保十年作」(1839年)と底に掘られている。

岡崎城から、西へ八丁

徳川家康(幼名は竹千代)は1542年にこの岡崎城で生まれた。岡崎の豆味噌を好んで食べたといわれる。

南三河の食文化を長年研究している日本料理店「一灯」(碧南市)の長田勇久さんはいいます。
「愛知の発酵調味料は個性派ぞろい。八丁味噌、粕酢、白醤油やたまり醤油、三河みりん、どれもかなり独自性があり普通じゃない。まさに発酵食品の聖地です」と。
これらの発酵食品が造りはじめられたのは、江戸時代の頃。八丁味噌のカクキューはなかでも古く、正保2年(1645)に岡崎で創業しました。
岡崎といえば、徳川家康が生まれた岡崎城。八丁味噌の「八丁」は、岡崎城から西に8丁(約870メートル)にある地名が由来です。
創業からさらに時をさかのぼり、戦国の世の桶狭間の戦いで、織田軍に負けて岡崎の寺へ敗走し、味噌造りに転身したのが初代の早川久右衛門でした。ちなみにこのとき、家康も岡崎にある大樹寺に逃れています。
石積みの木桶が並ぶ味噌蔵を見学して驚くことは、「昔のまま」が守られていることです。案内してくれた同社の早川ちかこさんが次のように教えてくれました。
「二夏二冬かけて、2年以上この蔵で熟成します。黒くて硬い味噌になったのは、理由があります。川に囲まれているため湿度が高く、水分を最小限にする必要がありました。温暖なので、傷みやすい米や麦の味噌は適さず、原料は大豆と塩のみです。いわば逆境を味方につけ、八丁味噌ならではの天然醸造の個性が生まれたのです」

江戸をめざした尾州廻船

実は本誌では、愛知の発酵調味料が持つ魅力に加え、尾州廻船の存在にも注目しています。江戸時代、物流の要だった海運業が隆盛を極めるにつれ、尾張や三河の多くの食品や物品は海を渡り、江戸でも消費されたといわれます。
大坂と江戸を結んだ菱垣廻船、日本海側を北海道まで航海した北前船と並び立ち、知多半島を拠点とする「尾州廻船」が海を駆け抜けました。発酵調味料はもちろん、灯油や料理油として生活に欠かせなかったごま油も、彼方此方の湊から江戸に送られたのかもしれません。
当時、江戸は人口100万人以上に膨らみ、天下泰平の世が続き生活も豊かになっていました。食文化が進化する途上で、江戸の人たちが愛知の発酵調味料を口にしていたという事実。つまり和食文化の礎には、少なからず愛知の発酵調味料も影響を与えているのではないでしょうか。
「当社に現存する記録によると、弘化年間には八丁味噌の4分の1を江戸に卸しており、江戸時代後期には4割近くが江戸に出荷されています。家康公は江戸に本拠を構えてからも、岡崎の豆味噌を取り寄せていたとか。多くの三河武士も江戸に上ったので、八丁味噌は江戸でもなじみの味だったようです」(早川さん)

「今年で創業380周年を迎え、当代で19代目。八丁味噌造りの伝統的な技術は変えずに、食べ方の新しい提案をしています。八丁味噌を粉末にした『八丁味噌のパウダー』は、毎日の食事やスイーツづくりに手軽にお使いいただけます」

SPOT

カクキュー (合資会社八丁味噌)

正保2年(1645)創業
所在地:愛知県岡崎市八丁町69
電話:0564ー21-1355(代)
https://www.kakukyu.jp/

白醤油

発酵食品を醸すのは、木桶、蔵に息づく微生物や常在菌。小麦9割で造り、色をつけぬように熟成は3ヵ月と短くとどめる。ヤマシン醸造は愛知県内でも随一の造り手。

小麦が醸す白醤油

続いて、岡崎の南西に位置する碧南市は、江戸時代から白醤油やみりんの醸造が盛んなエリアです。
白醤油で有名なヤマシン醸造の創業は享和2年(1802)。金山寺味噌からにじみでた薄い色の汁がすこぶる美味だったことをきっかけに生まれたそうです。濃口醤油の原料は大豆ですが、白醤油は9割を小麦から造ります。うまみ自体は濃口醤油のほうが強いものの、小麦デンプン由来の自然に醸しだされた甘みは奥行きがあり、味の凝縮感が印象的です。醤油市場の0.7%という稀少な品ですがファンは多く、大半が愛知県で製造されています。

琥珀色の醤油

「塩で調味するシーンで、かわりに白醤油をぜひ使ってみてください。味に奥行きがでます。アメリカや香港、タイでも人気で、右肩上がりで出荷が増えています」とヤマシン醸造の池嵜重之さん。

SPOT

ヤマシン醸造

享和2年(1802)創業
所在地:愛知県碧南市西山町3-36
電話:0566-41-2231
https://www.yamashin-shoyu.co.jp/

みりん

蒸したもち米、米麹、米焼酎を合わせたもろみを3ヵ月仕込み、搾って熟成させてみりんができる。日本酒造りと道具は同じだが、仕込む時期や原材料の米の種類、焼酎を使うところが日本酒とは異なる。

和食を変えた三河みりん

同じ碧南市には、現在みりん蔵が4軒あります。安永元年(1772)に廻船問屋の石川八郎右衛門信敦がみりんを造り、自前の船で江戸に出荷したのが同地のみりん造りのはじまりと伝わっています(九重味淋ウェブサイトより)。
今回、蔵を訪れた角谷文治郎商店の創業は明治時代。もち米、米麹、米焼酎のみを原材料とし、1年以上熟成させたうまみのある三河みりんを造りつづけています。「かつてこの辺りには灘に匹敵するほど多くの酒蔵があり、やがて日本酒の副産物としてできる酒粕を利用してみりんを造るようになったと聞いています」(三角治子さん)
みりんはもともと調味料ではなく、飲用の甘口のお酒でしたが、当時まだ高価だった砂糖よりも手頃で、甘味調味料としてあっという間に広まりました。ちなみに、三角さんが教えてくれた親子丼のつゆは、白醤油とみりんが1対2のシンプルな割合。碧南の発酵文化が醸しだす奥ゆかしく深い味わいを楽しめるそうです。

もち米の蒸しあがり

姉妹で4代目を継いだ、代表取締役の出口文子さんと三角治子さん。「春仕込みは梅や桜、秋仕込みは菊の頃、心地いい季節に造ります。麹で引きだしたお米の甘さとうまさがみりんのおいしさ」と出口さん。

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角谷文治郎商店

明治43年(1910)創業
所在地:愛知県碧南市西浜町6-3
電話:0566-41-0748
https://mikawamirin.jp/
三重県の複合商業リゾート施設VISON内に「みりん蔵」を出店

酒粕を原料とした半田の粕酢は、「その風味やうまみが寿司飯に合う」と、江戸で人気の寿司屋の間で絶大な評判を得た。写真は三ツ判®山吹®の発酵5日目の状態で、酢酸菌が上面に膜を張っている(MIZKAN MUSEUMで撮影)。

粕酢が寿司を進化させた

愛知県半田市にあるミツカングループは、いわずと知れたお酢をはじめとする食品メーカーですが、そのはじまりは文化元年(1804)。碧南から衣浦湾をはさんで西、知多半島に位置する半田も酒造りが盛んな土地でした。創業者の中野又左衛門も酒屋を営んでいましたが、酒の搾り粕を原料にして粕酢を造ることに成功しました。これがミツカンの商品第1号です。
本来、酒造家にとって、酢造りに欠かせない酢酸菌はタブー。なぜなら酒に混入するとすべて酢に変わってしまうからです。このタブーを破り、新たに粕酢を醸造したことだけでも十分な成功をおさめたといえるのに、又左衛門は江戸で人気がでていると聞いた寿司(現在のにぎり寿司の原形)に粕酢を推すことを決意。尾州廻船に粕酢を積み込みました。
江戸での粕酢の評価は上々。もともと寿司飯に使われていた米酢は値が張るものでしたが、酒粕を再利用した粕酢は価格も手頃で、しかも寿司飯を芳醇な味わいに格上げしたのです。この粕酢は酢飯をつくると美しく輝く色合いから、のちに「山吹」と名づけられました。
「知多半島の東側拠点からの尾州廻船は、酢など醸造品を江戸方面に出荷し、帰り荷には空樽、肥料(干鰯、〆粕、鰯粕)、鰹節、大豆、砂糖などを調達。また西側拠点の尾州廻船は上方、江戸へ米雑穀、塩、荒物、魚肥などを運んでいました。このように製品の出荷、原料資材の調達という両側面で発達した廻船航路が、愛知で醸造業に携わる私たちに残してくれた恩恵は計り知れないほど大きい」
と、同社味確認室の髙取順さんは語ります。最近、尾州廻船について調べはじめ、知多や三河の湊、江戸、他の地をめぐって海原を駆け、物資を迅速に調達した尾州廻船には熱いロマンを感じるといいます。
うまいものを生みだす才に加え、海を渡り遠く離れた江戸に挑んだパイオニア精神。そんな強者の造り手たちが生んだ愛知の発酵調味料には底力があるのです。

境川をはさみ、尾張と三河に分かれる。現在、八丁味噌は岡崎、みりんと白醤油はおもに碧南で造られるが、江戸時代の最盛期には各地に各種発酵食品の醸造蔵があった。三河から衣浦湾を渡った知多半島も酒の醸造が盛んで、半田では酒造業を営んでいたミツカンの初代が酢造りをはじめた。

海を越え江戸へ

元禄の頃に開削された半田運河。この地で造られた酢や酒などを廻船に積み込むため、半田港に向かって整備された。今は役目を終え、水のせせらぎがある市民の安らぎの場に。

ミツカンの横を流れ、半田港につながる半田運河。港の沖には千石船とも呼ばれた大きな弁才船が荷を待ち受けていたであろう。

MIZKAN MUSEUMに展示されている、当時の尾州廻船の復元。弁才船(べざいせん)と呼ばれる帆船タイプの和船で、長さ20mもあり圧倒される迫力。間近にみて海に想いをめぐらすと胸が熱くなる。

ミツカン創業当時の粕酢を再現した純酒粕酢「三ツ判®山吹®」は1984年に発売され、今も造りつづけられている。これで寿司飯をつくると、うっすらと赤茶色になるので、「赤シャリ」と呼ばれる。

SPOT

ミツカングループ

文化元年(1804)創業
所在地:愛知県半田市中村町2-6
電話:0569ー21ー3331(大代)
https://www.mizkan.co.jp/
半田運河のリバーサイドにある「MIZKAN MUSEUM」では、お酢造りの歴史やまつわる食文化をトータルに体験しながら学べる(要予約)

参考資料/「海の道、川の道」斎藤善之(山川出版社)
「水の文化 25号 舟運気分」ミツカン水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/
南三河食文化研究会 https://minamimikawa.jp/

(2025年秋の号掲載)
 ※掲載情報は取材時点のものとなり、現在と異なる場合がございます。